木を見て森を見ずの話

木を見て森をずという言葉、その意味は「一つの物事にとらわれてしまい、その周囲も含めた全体が見えなくなってしまうこと」もしくは、一つの物事を大事にし過ぎて、全体をおろそかにしてしまうことですね。

学校に通っていた頃からよく聞かされましたが、よく考えるとその本質的な意味を実感として捉えることができるシーンはそれほど多くないのではないでしょうか。
最近になって、この言葉を思い出すシーンがとても多かったので、忘れないうちに書いておこうと思います。

例えばNHKの報道番組を見ていたとき。
新型コロナウィルスの影響で日本での就業が難しくなり、何年も前から日本での就業を目指して借金をしてまで日本語の勉強に投資してきたベトナムの若者の一人が、現在はその借金の返済もままならなくなり「こんなことなら日本語の勉強に投資するんじゃなかった」という趣旨の発言をしているシーンがありました。
私はそれを見て、この映像を見た人の多くが「ベトナムの若者はみんなそう思っている」ように感じてしまうのではないか?という疑問を感じました。

私の想像ですが、報道(これはNHKでしたが)する側の立場に立つと、漠然と「こんなところにも新型コロナウィルスの影響が出ていますよ」と伝えるよりも、できるだけ具体的で分かりやすく困っている人を取り上げて、その具体的な課題を紹介した方が伝わりやすいということでこの取材をしたんだろうと思います。

でも、この問題の本質は別のところにあるように思えてなりません。借金をしてまで日本語を勉強して、日本で就業することで収入が増えて豊かな暮らしができると考えて(もしくは誰かに教えられて)自分の未来に投資したのは彼自身であって、今回は「たまたま」新型コロナウィルスの影響で渡航さえ難しくなってしまったけれど、実際には他の要因でうまくいかなくなった可能性も十分にあるわけです。
それを「新型コロナウィルスの影響で」と言ってしまえば間違いではないけれど、「新型コロナウィルスが引き起こしていることの全体像」の代表として紹介するにはおかしいと思うのです。

他にも、街頭インタビューで若者が発言しているのを「大勢の人の声を代弁している」かのように報道してその発言にコメンテーターが反応したりしているテレビ番組が多いようですが、本当に大勢の人が同じように思っているのでしょうか。

人間は自分の目の前で聞いたこと、見たことについて強く印象に残り、それだけが事実のように捉えてしまう「癖」があります。もしかしたら自分が見たその瞬間の前に、そこで起きたことの予兆となる前段階があったかもしれないし、たまたま聞こえた言葉の前後には、もっと重要な言葉があったのかもしれないのに。

少し話題がずれましたが、「わかりやすいから」「理解してもらいやすいから」という理由でたった一つのケースを取り上げすぎることが、いろんなところで理解を阻害しているように思えてなりません。
テレビやインターネット上のメディアから聞こえてくる/見えてくること(目の前にある一本の木)について、そのまま受け取るのではなくて、そこから全体で起こっていることを想像する(森を見る)チカラを持つことがとても大切だなと感じています。